2011年4月5日火曜日

マクロからミクロへ

最近移動中は矢野顕子さんの「右手」という曲をずっと聞いてる。


 誰がいいだとか 誰が悪いとか
 興味すらないよ
 争いのわけや 勝利の行方
 僕が知りたいのはそんな大それたことじゃなくて

 僕らの両手はどこまで伸ばせば
 誰かに触れるかって ねえきっと
 僕らの右手はどこまで上げれば
 誰かに見えるかって それだけ


というような歌詞が沁みる。
このまま聴き続けたら踊りができそうだ。


「被災地」「被災者」という言葉は、大きすぎる。
いくら写真を見ても記事を読んでも、その規模も実態も
当事者の気持ちも分からない。

だけど、石巻の友達の事は想像できる。
もう少ししたら彼女に会いに行くこともできるだろう。
彼女のために何かを手伝う事は、自分のできる事として
具体的に想像できるし、現実味がある。

彼女に会いに行けば、彼女の家族、親戚にも会うことに
なるだろう。もしかしたら近所の人たちにも。
そうしたら、その人達は私にとって「被災者」ではなくて、
名前を持った一人の人になる。
私が「被災者」に対してできる事は小さいと思うけれど、
知り合った人になら手を差し出せると思う。


色んな問題があるけど、そのサイズがあまりに大きいと
自分の起こす作用の小ささとあいまって、自分の問題だと
感じられなくなっていってしまう。

問題を自分の手に収まるサイズに小さく分けて、
それと真剣に向きあって行こう。

身近に手を伸ばしている人がいたら、
躊躇なくそれを握れる人間であろう。

矢野さんの「右手」という曲はそんな気持ちを持たせてくれる。
私にとって「復興」のテーマソングだ。


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