2013年2月6日水曜日

ものさし

私はアシュタンガヨガをやっています。
と言っていいのかどうかと迷う程度にですけれども。

と言うのも、アシュタンガヨガとは本来動きやポーズの事ではなくて、ヨガを学ぶ上での8つの支則の事ですが(アシュトはサンスクリット語で数字の8、アシュタンガとは八つの枝という意味)、私がやっているのはそのうち2つ、ポーズと呼吸だけなので、ほんとに入り口のところです。ヨガは元々修行であり、アシュタンガヨガの修行は一生終わらないとも言われています。


アシュタンガヨガについて書き出すとものすごく長くなるので割愛しますが、数あるヨガの中でも何故アシュタンガなのか、ものすごく好きとか必要だと感じているわけでもないのに何故続いているのか、最近自分で分かってきました。



ヨガは、ものさしなのです。


アシュタンガヨガは、最初のお祈りから一連のポーズの順番、目線、呼吸の回数まで全て決まっています。
私がやっているのは「ハーフプライマリーシリーズ」という、いわば入門コースみたいなものですが、それをざっくりと30cm定規に例えるとしたら、始めたばっかりの頃は最初の10cmで息も絶え絶えだったのが、今は定規にそってなんとか最後まで線が引けるようになった。でも後半は点線だったりかすれちゃったりしてヨレヨレ、というところでしょうか。


ヨガを始めた頃は変形性膝関節症がひどくて膝をある角度より深く曲げると激痛が走っていたので、初めて教わった時にはそんな膝の曲げ方あり得ない、一生できないと思っていたポーズがいくつかありました。
今朝、そのうちのポーズの一つを初めて「気持ちいい」と感じ、そう思った自分にビックリしました。


では、明日もそう感じるかというと、そうとも限らないのです。
昨日できなかった事が今日できる、という事もあれば、その逆もあります。
ヨガの中で「できる」と「できない」ははっきり分かれておらず、グラデーションで繋がっているところを揺れながら「できる」方向にゆっくり向かっていくのです。
この、「できる」と「できない」は地続きだという事はヨガを通して体感した一番大きな収穫だと思います。



ハーフプライマリーシリーズの山場は私的に二つあり、一つはバックベンド(ブリッジ)、もう一つはヘッドスタンド(三点倒立)です。バックベンドはエベレスト級で、ヘッドスタンドは富士山級です。

バックベンドは「人生の中でいつか登頂できる日がくるのだろうか」っていう感じですが、ヘッドスタンドは、「一応頂上には登った事があるような気がする」ぐらいです。

これも割と最近の事ですが、安定してヘッドスタンドができるようになり、慢心した辺りで派手にぶっ倒れました。あれ?なんで?まいっか。と一瞬思った後、何となくもう一度やってみました。するとまたあれ?なんで?と思うぐらいスキッと決まったのです。会心のヘッドスタンドでした。
おー、これか、と思い、その時の腕の位置、手のひらと頭の触れ方、頭の床への付き方を逆さまになりながら確認して覚えました。コツをつかんだと思ったのです。

で、次の日その通りにやってみたら、全然グラグラするのです。
コツだと思っていたものが見当違いだったのかも知れません。
この時私が思ったのは、「頭で理解できることなんてその程度」という事です。
何故派手にぶっ倒れたのか、その直後に会心のヘッドスタンドができたのか、理由はあると思います。でも、それを解明する事は重要じゃないと思いました。



言い方がとてもおかしくなりますが、ヨガをやってるのは私だけれど、ヨガと体の間で勝手な交流があり、私はそれを見守っているだけなのです。
「なんとなくもう一度やってみたい」
「なんとなく今日はバックベンドしたくない」
「なんとなく今日は太陽礼拝をもう少しやりたい」
と、思うと言うより感じます。体の言葉に耳を傾けるというか。
やりたいはいいとして、やりたくないを素直に聞くか、「こら」と叱咤激励してやらせるかは私次第ですが、そういう時は我ながら「やらされてる感」があり、正に苦行です。でもそこで呼吸を整えたり少し休みを入れたりすると、またなんとなく「やる」という声が聞こえて来ることもあります。

この「なんとなく」がとても大事だと思うのです。
言葉で説明できないものを「なんとなく」というのだと思いますが、そこには何かがある。説明できないからと言って無視していいものではないと思うのです。
直感、と言い換えてもいいかも知れません。



アシュタンガヨガという定規を毎日自分にあてる事で、日々の微妙な変化に気付きやすく、体の小さな囁き声も聞き取れるようになるのです。


ですが、ヨガマットの上に立ってみたものの、太陽礼拝の最初の動作、腕を横から上げる、それだけの事ができない日があります。それでも無理やりやるか(やり始めちゃえば何とかなる事が多い)やらずにぼーっと自分を観察してみるか。

ヨガマットを敷く気にすらなれない日もあります。そうやって、実際には全くヨガをやらなかった日にも、「ヨガと私」という距離を測る事で自分を見ています。そして、全然やる気が出ない日が続いても、しばらくしたらまた気持よくやれる日が来る事を経験で知っています。


ヨガというものさしを一つ手にいれて、体との付き合い方が少し分かったと同時に、少し生きやすくなりました。


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