2013年1月7日月曜日

踊れる体

よく話題になることですが、「踊れる」とはどういう事を指すのかという話。

もともとジャズダンスから入って、そのあとモダンダンスやバレエのトレーニングをしていた私には、「踊れる」=先生や先輩や、その他たくさんの舞台で見るダンサーみたいに動けること、というイメージがありました。

特にグラハムテクニックを習ってたモダンダンス時代は、見に行く舞台と言ったらカニングハム、フォーサイス、アルビンエイリー、ピナ、などなどアメリカやヨーロッパのビッグカンパニーで、それはそれは体の効くダンサー達を見て、目指す方向の最高峰があれなのだと思っていました。

この刷り込みはなかなか根強く、そこに照らし合わせて自分は「踊れない」とずーっとしつこく思ってきたのですが、ダンスのレッスンというものに通わなくなって10年ちょっと、このところやっとその刷り込みから解放されてきました。





今私の思う「踊れる」とは、簡単に言って「頭と体が繋がっていること」です。
出したいと思ったところに手が出せること、止まりたいと思うだけ止まっていられること、など、その瞬間にイメージした通りに体が応えて動いてくれることです。

「体が応えてくれる」とはどういうことか。

例えば、目の前でグラスが倒れそうになったらパッと手が出る。
例えば、ドトールでバイトを始めた初日は「カフェラテのMサイズ」と言われたらまずMサイズのカップをえーっとどこだっけと探して、それをマシーンの下に置いて、次はなんだっけ…とやっていたのが、1ヶ月後には一連の動作を殆ど考えずに素早くできるようになる。

そういうのと殆ど同じだと思います。
なので、そこにはやっぱりトレーニングは必要で、鏡を見てイメージと実像のズレを修正するのか、とにかくひたすら同じ動きをくりかえすのか、そこは人それぞれ、自分に合ったトレーニングがあると思います。

先生についてレッスンを受ける事をもちろん否定はしませんが、歌舞伎や能やバレエなど、「型」があるものはともかく、レッスンで教えてもらうこと=ダンスだと思ってしまわないように気を付けなくてはいけないと思います。
または、先生が教えてくれている事が「ダンス」なのか、ダンスのための「トレーニング」なのかを見極める必要があると思います。



そして、それよりもっと大事なこと。
実際踊る時には、倒れてくるグラスはないし(あるかもしれないけど)、カフェラテを注文してくるお客さんはいないわけです(いたら面白いね)。
そういう要望や欲求や必然を自分で生み出さないといけない。

それが生まれるきっかけが音楽であるかも知れないし、他人かもしれない、言葉、空間、時間…そして何もないかもしれない。

「ダンスはどこから生まれるか?」という話にも繋がるけど、この動きの基になるイメージを生み出すこと、こっちのほうが体を作ることより難しく、そして個人と分かち難く結びついていると思います。
毎日何を思い、何を見て、何を食べ、何を話しているか。
その時体がどういう状態であるか。
そういうことにものすごく意識的にならないといけない。

こう書くと自分でも「なんかダンスってたいへーん」と思いますし、実際大変なんですが、でもここまで書いた事って、ほぼ「生きること」と同じ気がします。

「あなたにとって踊ることとはなんですか?」
と聞かれて
「生きることです」
なんて答えると、なんかかっこつけて聞こえるから言いたくはないけれど、でもそうなんじゃないかと思います。
踊りに限らず、歌でも美術でも文章でも、トレーニングの仕方に差があるだけなんじゃないでしょうか。

だから、これを読んだ方は、恥ずかしいので「あなたにとって踊ることとはなんですか?」って聞かないでね。





5 件のコメント:

  1. こんにちは。そうですね、生きること!わたしは「先生」をやったり論文を書いたりしていますが、どちらをやっていても、普段何を考えているか、どんなことを大事・面白いと感じる人間か、全部出るな〜と感じます。生徒に同じ指示を出しているみたいでも、わたしと他の方では、アクセントの置き所が全然違ってたりするし。「で、あなたはどうしたいの?」っていうのを、わたしも生徒も、常に突きつけられていたいなと思います。
    わたしは歌舞伎(というよりある歌舞伎役者さん)が好きで時々見るのですが、ベテランの方って、「自在」とか「心も体も」とか言うのがもはや意味をなさないくらいにその方のどこもかしこもが作品を熟知していて、目線も仕草も声の上げ下げも、わざわざ指令を出さずともどんどん勝手についてくる感じで、感嘆してしまいます。かといって「何にも考えてなくても」やれる、ということではなくて、明確なビジョン(人物造形・作品解釈だけでなく、もっと人生観みたいなもの)があって、そこに向かってすべてが動いていくという様子がたまりません。
    そんなことを最近ちょうど思っていたので、長井さんのブログにドキドキしてしまいました。なかなか上京できず、長井さんのダンスを拝見(というか「見る」では多分ないような。。触れる?ぶつかる?)したことがほとんどないのですが、文だけでなくダンスに早くお目にかかりたいです。

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  2. あさこさん
    日々思うことが多くてこの文章もすでにアップデートしなくちゃな、と思うほどなのですが、共感して頂けて嬉しいです。
    ダンス、是非見て頂きたい!文章を書くことも好きですが、やっぱりどこまで書いても書ききれないというか、追いつけないのです。
    自分に追いつける、もしくは自分を追い越してくれるのは私にはダンスだけだなと思います。
    見て頂ける日を楽しみにしています。

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  3. 長井さん
    お返事ありがとうございます。こうしてコメントが載ったのを見たら、非常に長く書いてしまっていて、我ながら驚きました。すみません…
    「あいちトリエンナーレ」で偶然まことクラヴに遭遇したのが唯一の長井さん経験です。びっくりしましたがしびれました。ダンスって、わたしの思ってきた「ダンス」の範疇より全然大きなものだと思いました。だから「長井さんのダンスが見たい」って、「ダンス」と名指してしまっていいのかいつも迷います。「長井さんのダンス」は、わたしのイメージする「ダンス」像を軽々壊してくださりそうです。

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    1. あさこさん
      そうでしたね。あいちトリエンナーレ今年2回目だから、もう3年前って事になるのでしょうか??
      あの時のまことクラヴのパフォーマンスを「ダンス」でくくると確かに「??」ってなるかもしれないですね。
      部長にとってダンスとは「場が踊ること」なのだそうです。

      でも私個人は割りと普通…っていうか、純粋なダンス…だと思います。
      まことクラヴでやり散らかしてるので、その反動もありつつ…。
      どっちも見て頂けたらいいな。

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    2. ちなみにこんなの見つけました。
      http://aichitriennale.jp/2010/blog/2010/09/09/
      なつかしー。

      うん。私個人のダンスはまことクラヴとはだいぶ違いますね。一人でこんな事しません。

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