2012年12月10日月曜日

今朝目が覚める直前、頭の中でいろんな言葉が飛び交い、
最終的に

「つもりがあろうとなかろうと
 生きてるだけで傷つける」

という言葉になりました。

ある特定の状況を指した訳ではないけれど、
人は皆何かしらや誰かしらを傷つける事なく
生きて行くことなんてできないんじゃないかと思うのです。





そして何かしらや誰かしらから傷つけられる。

傷つけた方にそんなつもりはなく、こっちが勝手に
傷つくという事も多々あります。

自分が傷つく事も辛いけど、やはり傷つける方が辛い。

はっきりと傷つけたと自覚している事もあるし、
全く自覚はないまま傷つけた事もあるでしょう。


ふっと吹けば飛ぶような傷から、
二度と修復できないような傷もある。


周りの人の顔を思い浮かべると、みんなどこかしらに
傷を持っています。確実に。
私もなんだか傷だらけのような気がしてきた。

そして、他人を傷つける恐れのある尖ったものを、
できるだけ人に向けないよう向けないよう気をつけている。
そのせいで自分を傷つけてしまう人もいる。
見事に切っ先を丸めている人もいる。


この前寄ったバーで流れていたシザーハンズが
影響しているのかしら。



そんな事をぼんやりベッドの中で考えていたら、
次にポッと「禊(みそぎ)」という単語が思い浮かびました。


舞台に上がる前、メイクをしたり衣装を着たり
歯を磨いたり深呼吸したりしながら、
クリアな状態に持っていく。


神道の人が滝に打たれるように、
特定の行為がある訳ではないけれど、
何かを通過している気はします。

そして、踊る事そのものも禊であるかもしれない。

体中振り絞って汗をかいて踊る事は、
何かを外に出してくれる。
ただ動いて気持ちがいいとかそういうのではない。



これからも傷つき、傷つけながら生きていく私は
踊る事でしか許されないと思っているフシがある。
踊って許されるものなどあるのかしら。


そもそも何から許されたいのでしょう。

一度本物の滝に打たれてみたら何か分かるのかしら。




3 件のコメント:

  1. こんにちは。
    わたしも、生きてるだけで傷つけるって思います!有名な歌で「愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない」てのを聴いたとき、いやいや傷つけることを背負える関係が大事なのじゃないかって思ったことがあります。
    必ずしも傷つけなくてもいいけど、でも傷つけることを恐れていたら行けない地点もあるんじゃないかな、なはんて、本当に傷ついたり傷つけたりした経験がない(またはそれに気づいてない)者の戯れ言かもしれないけれどそう思います。
    間違いを犯さずに一生は終えられないし、毎日は過酷だし。。というのが人間だとして、因果すぎる生き物やなと遥かな気持ちになるけれど、でもひと一人分場所をとって(幸運にも)生きているのだから、それもこれも背負って、且つ、楽しいこと大事なこと大事なひとをめいっぱい大事にできる人間でいたいです!

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  2. あさこさん

    コメントに気づくのが遅れました!すみません。
    >傷つけることを恐れていたら行けない地点もあるんじゃないかな、
    その通りだと思います。
    なんか、例えば、草むらを歩いていて、気付かずに虫や草や花を踏んづけたりすることってあるじゃないですか。
    そういうのって避けられないなと思って。
    かと言ってそれを恐れて表に出ないのではそれこそ生きていけない。

    >それもこれも背負って、且つ、楽しいこと大事なこと大事なひとをめいっぱい大事にできる人間でいたいです!
    めいっぱい大事に。素敵ですね。
    私もそうありたいです。

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  3. 長井さん、お返事ありがとうございます(これまでコメントにお返事を頂いてもお礼も申し上げないままで失礼いたしました)。
    草むらの画で考えたことがなかったけれど本当にそうだなと思いました。しかし、これが「何かを得るためには何か誰かを傷つけることも辞さない」というレトリックで、戦争等々の正当化に使われたりしたら困ります。生きていくことが、誰かや何かを傷つけ痛みを強いることと対だとしても、それは「仕方ないだろ」「やって当然」ということではないから…生きることは、誰か何かを傷つけることだけじゃなくて、誰か何かにぎりぎりまで寄り添うことまでセットだ、ということかな。長井さんにおいては、それがダンスということなのかなと思います。わたしも、わたしの形で受け取り、パスしたいです。

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