2012年9月15日土曜日

「蜜 室」閉幕。

オリンピックがいつの間にか始まって、いつの間にか終わっていました。
気がついたら蝉が鳴いていました。
さらに、鈴虫が鳴き始めています。

そして、この数ヶ月、全てをつぎ込んできた「蜜 室」が終わりました。


稽古の始まりはフェードインで、そして終わりはカットアウトです。

いつの間にか作品の稽古が始まり、気がついたら他に何も見えないほど
作品にどっぷり浸かり、心も体も時間も全て捧げた状態で舞台に向かい、
そして公演が終わった次の日、いきなり何もなくなりました。

それまでうんざりするほど毎日毎日顔を合わせていたメンバーと
突然会わなくなり、毎日何度も聞いていた音楽を耳にしなくなり、
毎日稽古していた動きをやる必要がなくなります。

この体に染み付いたあの動きは、やがて薄れていく。

今なら、まだ踊れる。全部踊れる。
なのに、踊る場がない。

あまりに唐突に終わるので、止まれない心と体が戸惑っています。

この慣性の法則とでもいうべき戸惑いがあるからこそ、
次を求めていけるのかな、と思う今日。

すでに次の機会を求めてやまない自分がおります。






いつものまことクラヴの公演では必ず映像を使っていたので、
映像担当の私は全然寝られなくて、楽日が終わったあとは
「やっと寝られる」という開放感でいっぱいでした。
心も体も一緒にカットアウトです。

今回だって初日までの睡眠時間で言えば相当に短いですが、
それでも消耗具合が全然違います。

多分、ダンスは私をそこまで疲弊させないのだと思います。

今回は、ダンスをツールとしてではなく、
ダンスそのものとして扱いました。

毎日毎日疲れ果てていたけど、舞台に立って踊る事は
一方的に何かを出すだけではなく、ものすごく何かを受け取るのです。

これが外だと、どこまで出しても抜けていってしまう感覚があり、
とんでもなく疲れるのです。

劇場という場のもつ力を改めて感じる公演でした。




「劇場を出よう」と思った10年前は、その力に頼る事を
よしとせず、自分達で地場を発生させるために外に出たのでした。

10年経って劇場に戻ってきた私達は、劇場というものに
まっすぐ向かい合いました。

稽古が行き詰まると、劇場はとたんに手強い相手に思えます。
まっさらでもない、かと言って饒舌でもない空間を、
生かすも殺すも作品次第、そのプレッシャーがのしかかってきました。

その感じは小屋入りするまで続いていたように思います。




私が個人的に「行ける、というか、行く」と思ったのは、
本番前日の夜です。

通し稽古のビデオで、初めて劇場の中にある作品を
外側から見た時です。

冒頭のシーンに、自分がイメージしていたのとは全く違う、
ものすごく派手でシャープな照明がついていました。
それは何と言うかもうエンターテイメントでした。
何が始まるのさ!?と期待させるに十分で、かつ、
「拘束されている」というイメージが表現されていました。

ビデオを見ていたのはすでに深夜2時近くでしたが、
いてもたってもたまらず、照明の森さんにメールしました。
すると森さんからもすぐに返信があり、リハの中で
覚えきれなかった展開の早いシーンの構成をビデオで
解読していたそうです。

森さんの名誉のために言っておくと、それは森さんに覚える力が
ないのではなく、そのシーンは元々即興ベースなので
音にも合わせてないし、踊る位置もその時その時で違うのです。
解読しようとしていたと聞いて私が逆にあきれたぐらいです。


それまで、テクニカルスタッフ陣は、作品が完成していなければ
力を発揮できないものだと思っていました。

いや、とんでもない、この人達は一緒に作ろうとしてくれてるのだと。

まことクラヴを支えてくれるスタッフ陣はもうかなり長い
付き合いですが、中でも照明の森さんとはご一緒する機会が
一番多くなりました。

舞台監督もおらずテクニカルスタッフは森さん一人、
という状況の中で公演をした事も何度かあります。

照明さんなのにタイムテーブル作ってくれたり、
野外の本番が大雨で機材が大変な事になったり、
小屋入りまでにまともな通しを見せられなくて
勘で書いた仕込み図を元に徹夜で仕込みしたり、
オペをしながら横にあるピンスポット操作したり、
(しかも本番でピンがつかなくて暗転になってしまい、
とっさに手元のペンライトをピンスポの代わりにしたという)
とても過酷な現場を一緒に乗り越えてきたのです。


森さんだけでなく、舞台監督の原口さんも、
本来の仕事ではないにも関わらず、毎日毎日稽古場に来て、
大量の、ほんとにうんざりする程大量の小道具を作ってくれました。
消しゴム削ってもんのすごい精巧な判子を作る舞台監督
なんてそういません。頼んでないのに。

前述の徹夜仕込みは原口さんも一緒でした。
本番当日、このままゲネをやったら開場時間にかかってしまう、
さて、どうする、となった時、
「関係ねえ!これじゃテクニカル誰もまともなオペできないだろ!
やるに決まってる!」と啖呵を切り、なのに予定通りの5分押しで
開演にこぎ着けてくれました。
原口さんのあの一言で、ぎゅぎゅっと全員の意識が束になったのでした。


音響の牛川さんも、こちらがリクエストしていないのに
舞台にマイクを仕込み、足音を増長させたりして
無音のシーンに抜群のタイミングで効果を加えていました。
雲太郎さんの足踏みが金属音みたいに響いたときは、
袖の中でみんなでビックリしたものです。
それに、音の入るタイミングが遅いと思ったり、
早いと思ったりした事は、リハ、本番を通じてただの一度も
ありません。
動きも台詞も、完璧に覚えていなければできない事です。
ゲネまでずっと構成を変更し続けていたのに。


ここまで来たらついでに書きます。
3日目、私はスパッツの下にはく、線の出ない本番用の下着を
洗って干したまま忘れてきてしまいました。
しかも、その事にスタンバイ直前に気がつきました。
その日はいていた下着は形も柄もダメすぎて、
これは…生…?と一瞬思いましたが、ダメもとで衣装の
絵美さんに相談してみました。

絵美さんは責めるような事は一言も言わず、一瞬考えて、
ボツになった衣装の中から白いスパッツを持って来て、
すごい早さで中にはける丈にカットしてくれました。
「はい、これで大丈夫だから」
この一言で、私は自分の失敗を気にする事なく
舞台に上がれたのです。


音楽のDill兄も、随分早くから稽古場に来て、ずっと
リハをみながら作業していました。
あーでもないこーでもないと一つのシーンをこねくり返すのを
辛抱強くずーーーーっと見守りながら、シーンにそぐう曲を
作ったり、「ここにはこういう音だ」と勝手に足して来たり、
「ここできっかけになる音が欲しい」というリクエストに
その場で応えてくれたり、とにかく、稽古の時間を共に
していなければ作りようのない音楽を作ってくれました。



彼らに共通するのは、「勝手に何かを足してくる」ことです。
そして、もし部長が「それは違う」と言ったら、
それがどんなに手間のかかっているものでも
あっさり引っ込めると思います。

ですが、私が見ていた限り、足されたもので余計なものは
ほぼなかったと思います。


スタッフへの愛が溢れすぎてうっかり長くなりましたが、
つまるところ、劇場作品というのは、カンパニーだけで
作るものではない、という当然の事を劇場に入ってから
身を以て理解したのです。


逆に言えば、劇場と言うのはテクニカルスタッフが
最も力を発揮できる場所であり、彼らのホームなのです。
それこそ、トラムの事は知り尽くしたメンバーです。
私たちは、怯える事なくどーんと彼らの胸を借りれば
良かったのです。


森さんの照明をビデオで見た時から、私は自分が
たくさんの人で作った作品の一部であると思いました。

それまで、解釈がわからず、やりにくいと思っていたシーンが
いくつかありましたが、もうやりにくいもへったくれもない、
私は私ですらない、むしろ私がなくなったところから始まる、と
思いました。

そう思うと、逆にそれまでやりにくかったシーンが
透明に見えてきて、ただそこに溶け込んで体を乗せていけば
いいだけになりました。

お客さんに見られている事は理解していても、
私を見ているのではなく、私を通してその先の
作品を見ているのだと思えたのです。

そんな感覚で踊ったのは初めてだったかも知れません。

それもこれも、全て劇場の持つ力だと言ってしまっても
いいのかもしれません。


劇場にすすんで囚われる、その事はとても気持ちの良いことであり、
とても蠱惑的な時間でした。


かと言って、この夢のような時間の中にずっと耽溺していたいとも
思いません。

外に出て、現実を見て、きつい思いもたくさんして、
だからこそまたここに帰って来たいと思えるのでしょう。


劇場が劇場らしくあり、そこで行われる事が、
お客さんにとってワクワクする事であるよう、
一演者として、一観客として心から望みます。


劇場と、そこで生まれる数々のドラマに愛を込めて。

ありがとうございました。




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